「和尚さん、うちのじいちゃんって、極楽に行ってるんでしょ?だったらなんで、供養するの?もうしなくても大丈夫じゃん。」
何度かお檀家さんに尋ねられたことがあります。確かに、もう供養しなくても故人が極楽で幸せなら、なんの心配も無いかもしれませんね。ここでは、供養を行う意味、「なぜ供養を行うのか」を考えてみたいと思います。
誰でも、親しい人との分かれは悲しく、寂しいものです。冥福を祈るのと同時に、その人の生を振り返り、その人との繋がりを振り返り、生きることと死ぬことを問うのが葬儀です。故人を送った後、悲しみは時と共に少しずつ、少しずつ癒やされていきます。しかし、時と共に悲しみが増すという方もいらっしゃるかもしれません。人それぞれの違いはありましょうが、別れの寂しさが癒えるその時まで、私たちは遺影の前で、位牌の前で、遺骨の前で、悲しみと共に手を合わせつづけます。
この悲しみはどこで区切るのでしょうか。もちろん、そんな杓子定規に線を引くわけにはいきませんが、一般的には百か日が悲しみに区切りをつける日であると言われています。百か日のことを「卒哭忌」すなわち、「泣くのを卒業する日」というのはこのためです。
これは、お釈迦様と弟子の目連尊者とのエピソードがもとになっています。目連尊者は親孝行で有名で、母が亡くなった悲しさで毎日泣いて暮らし、仏道修行に集中することができなくなっていました。母が亡くなって100日目、そんな彼にお釈迦様は諭しました。
「そうやって何も手につかず泣いていることは、お母さんを悲しませるだけですよ。仏道修行に邁進することがお母さんへの何よりの供養。お母さんとのご縁を大事にし、教えてもらったことを生かして、これからの人生を歩みなさい」
空しく過ごすこと無く心に念じる
それでは、泣くのを卒業したあと、悲しみはどうなるのでしょうか。何もかも忘れてしまうのでしょうか。何も感じなくなるのでしょうか。そうではありません。泣くのを卒業すると、悲しみは「感謝の気持ち」になります。「あのときこうしてくれてありがとう」「あのときこう言ってくれてありがとう」「一緒の時を生きてくれてありがとう」私たちは遺影の前で、位牌の前で、遺骨の前で、微笑み返しながら感謝の気持ちと共に手を合わせ続けるのです。
この感謝の気持ちは、相手が幸せだから、もう心配ないからということに関係なく、自分の心の中に自発的に生まれ、そして溜まっていきます。
この、自分の心の中に溜まった「ありがとう」を、定期的に引き出し、故人へ届けてあげるのが供養なのです。
すべてを引き出して残高0になった心には、また次の瞬間から「ありがとう」が溜まっていきます。次に届けるときまで、私たちは心の中に「ありがとう」を貯めながら手を合わせるのです。