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​登録有形文化財​

​現存する高龍寺の建物は、北前船による海運が盛んだった時代、越後国(現在の新潟県)柏崎の大工集団によって建てられたものです。

平成24年2月、高龍寺境内建物のうち、本堂、開山堂、山門及び袖塀、防火塀、金毘羅堂、水盤舎、鐘楼、法蔵、位牌堂、土塀の10件が国の登録有形文化財に指定されました。

 本堂 

明治27(1894)起工、33(1900)年完成。中央にお釈迦様をお祀りし、間口13間(約27メートル)の総ケヤキ造り。

​直径1尺4寸(約42センチ)のケヤキ丸柱39本が使われています。

山門 

明治44年(1911)建立。正面「国華山」の額は永平寺64世、森田悟由禅師によるもの。総ヒバ作りの禅宗様式で、207の彫刻が施されていると言われています。

 臥龍廟(開山堂) 

1899年建立の現在の伽藍最古の建物。歴代住職や三十三観音、五百羅漢をお祀りしています。通称「羅漢堂」と呼ばれ親しまれています。

 金毘羅堂・水盤舎 

高龍寺の開基とともに祀られ、現在の建物は大正4(1915)年建立。金毘羅尊天、廣富尊天、龍王尊天を祀るため、三社殿と呼ばれています。函館は北洋漁業の街であったため、航海安全、海難救護の神として信仰を集めています。

 鐘楼 

大正11年(1922)建立。篤信の檀家山﨑松藏氏の寄贈によるものです。梵鐘は第二次世界大戦で供出されましたが、昭和29年に再鋳され、今も朝6時と夜9時に鐘の音を響かせています。

 宝蔵 

大正5年(1915)年建立。高龍寺総代であった函館の豪商、相馬哲平氏の寄贈によるもの。平成29年に全面改修され、当時の姿を取り戻しました。

 防火塀

函館は昔から大火が多く、高龍寺も火災対策として明治40(1910)年に厚さ60センチの煉瓦を積んで防火塀を築きました。山門右手はフランス積み、山門左手はイギリス積みと、異なった方法で煉瓦が積まれています。

 位牌堂 

昭和8(1933)年建立。地上と地下に、檀信徒のご遺骨やお位牌をお祀りしています。

​今でも日々檀信徒ご供養の御法事が営まれています。

 傷心惨目碑 

戊辰戦争当時、高龍寺は高松凌雲によって函館病院の分院として使われていました。

しかし明治2年5月11日未明、官軍兵士が広隆寺に押し入り、療養中の会津藩士が惨殺されるという事件が起こりました。

この事件の後、会津藩ゆかりの人々によって惨殺された会津藩士の供養費が建てられました。文面「傷心惨目」とは中国の詩人李華の漢詩「古戦場を弔う文」より、また、墨蹟は中国宋代の忠臣岳飛の真蹟から採られました。

​今でも、毎年五月には碑前にて供養法要が執り行われます。

​参拝順路案内

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